国を守ること       最後の方を2008年4月29日更新追加しました。

it私の両親は戦争体験者、父は赤紙をもらって召集され、国内で訓練中に終戦を迎えています。父の長兄は南方で戦死、次兄は予科練で終戦を迎えています。母は激しい空襲のなか祖父母とともに6人と弟や妹を守って、東京で過ごしております。B29の空襲で焼け死んだ人、家を焼かれ途方にくれ、親戚などを頼る人たちの様子を語ってくれました。

私が成人したころから、東西の冷戦も沈静化し、中東の宗教対立、民族対立による戦争はりましたが、日本国内はいたって平和で、昭和元禄などと言う言葉も思い出します。平和ボケした時を過ごしました。そんなときを経て、昨今のテロ、テロに報復する戦争、ミサイルを試射し、核実験もささやかれる隣国の情勢を考えると不安にになり、色々と明治維新以降の特に日中戦争から対米英豪蘭との開戦に至る状況と実態、その本質的な原因を知りたいと考えています。

そんな中、『亡国のイージス』(海上自衛隊の最新鋭イージス艦を北の工作員が乗っ取るという話)
つづいて『男たちのヤマトYAMATO』、さらに今回取り上げた。『出口のない海』これは回天と言う特殊兵器、いわゆる人間魚雷に搭乗する若者の話です。その当時の若者が何故自ら志願してこういう兵器に搭乗したのかをもう少し深く知りたくなりました。国を守ると言うより、愛する家族たちを守りたい、自らの一命と引き換えに・・・そんな心情が前述の映画である程度伝わりました。

一方、小泉前首相の靖国参拝をめぐる中国、韓国の反応。私は若いころは、A級戦犯は大罪人で彼ら合祀した靖国神社に大いに疑問をもっていました。しかし一面的な考えの奥に色々見えてくるものもあります。


 私の住む横浜の鶴見に総持寺と言うお寺があり、いつも愛犬とお散歩している大きなお寺ですが、この墓地の一角に神風特攻隊産みの親と呼ばれる大西瀧治郎海軍中将のお墓があります。墓石の横にある石碑には故人の考えなどが書かれています。確かに軍の責任は重い。そういってこれらの戦争指導者をすべて悪人としていいのか、大いに疑問を持っている昨今です。
 



i市川海老蔵主演、原作横山秀夫、監督佐々部清で製作された映画『出口のない海』を鑑賞しての感想(ヤフー映画レーザービュー)に次のような投稿がありました。
投稿者:emblem_chrysanthemumさんというハンドルネイムの方です。

真実を見る勇気を持つ必要がある

有名な神風特攻隊やロケットエンジン式特攻機「桜花」が話題になってきたけど、
回天は今年になってメディアでも取り上げられるようになった感がありますね。
いずれにせよ、日本を守ろうと文字通り命を捧げる決意をした60余年前の若者たちへの
レクイエム、また、今の平和の礎となった彼らを忘れないということは、大切でしょう。

特攻隊=アルカイダなどのイスラム系テロ組織と結びつけたがる人たちが多いのですが、
そういう人たちは、両者の決定的な違いを認めようとしないんですよね。
まず前提となる戦争はそもそも、各国家に正当に認められている外交の一手段です。
意外でしょうが、これは事実です。
戦争の反対は平和だと言いますが、戦争の反対は「対話」です。
平和の反対は「混乱」「混沌」です。

特攻隊は、あくまで相手の軍事的なものを対象にしたのであって、
民間人を狙うケースがほとんどのアルカイダなどとはまったく違います。
また、特攻隊を責めるなら、大東亜戦争時に、計画的なまでの民間人を含んだ無差別爆撃や
原爆を2発も落としたアメリカなどはまったく裁かれていません。

特攻隊員だって、それまで生きてきた自身の人生と、父母、妻、子供など愛する人たちを
持つ生身の人間だったわけです。
本心から好きこのんで出撃していく人間がどれだけ居たんでしょうか。
私的で世俗的な葛藤なんて当たり前です。
中には土壇場で怖じ気づいて出撃できなかった人たちだっていたでしょう。

でもそこを乗り越えて、もっと大局的な視点から愛する人たちを守ると信じて
出撃していった人たちのほうが多いんです。
彼らの遺書の現物を見れば感じるものがありますよ。あの達筆さ含めて。
「特攻隊は遺書に本心は書けなかった」なんて言う人たちもいますが、
人間、死に際してまで気持ちを偽る事なんてできません。
事実、出撃した人たちの多くは、逃げることなく突っ込んでいったのですから。

ではなぜ、特攻隊のようなものを作ってまで日本は戦争を遂行しようとしたんでしょう?
特攻隊の生みの親とも言える、大西瀧次郎氏のこんな言葉があります。

「もう戦争は続けるべきではない。しかし、敵を追い落とすことが出来れば七分三分の講話が出来るだろう。
アメリカを本土に迎えた場合、歴史に見るアメリカインディアンやハワイ民族のように、
闘魂ある者は次々各個撃破され、日本民族の再興の機会は永久に失われてしまうだろう。
このためにも特攻をおこなってでもフィリピンを最後の戦場にしなければならない。
しかしこれは九分九厘成功の見込みはない。では何故見込みの無いのにこのような強行をするのか。

ここに信じて良いことがある。いかなる形の講和になろうとも、日本民族が今まさに滅びんとする時にあたり、
身をもってこれを防いだ若者達がいたという歴史が残る限り、五百年後、千年後の世に
必ずや日本民族は再興するであろう。」

この言葉をベースにしたフラッシュがあるので、見てみるのも良いでしょう。
http://nandakorea.sakura.ne.jp/media/sinjituwadokoni.swf


回天搭乗員の言葉なら、第二回天隊の小灘利春氏のもの。

「私は常々、人間魚雷<回天>は非人道的な兵器どころか人道的な兵器であると公言しています。
己の命を捨て、何千、何万の命を生かす、これぞまさしく人道ではないか。
特攻は日本人をこの世に残したい、そのためには自分の命は投げ出してもよいと納得した上の捨て身です。
そういう多くの人に尽くそうとした人を評価し、敬わなかったら、
誰が人に尽くすようになりますか」


もちろん、この今の平和でグローバル化と呼ばれ飽食の時代の価値観からすれば、
戦争そのものは絶対悪であるし、人が死ぬだけでしかない戦争に、良い戦争なんてありません。
でも、わずか61年前に、日本は国家と民族そのものが滅亡の危機に瀕し、
それをなんとか救おうと命を賭けた人たちが実際にいたことを、絶対に忘れてはならないと思います。
当時の世界情勢を見ようとせず、断片的な事象を切り貼りして、
なんとかして戦前戦中の日本を悪の存在扱いしたい人たちがいますが、
これからの日本人にとってもっとも大切なことは、自分自身で「真実」を見る勇気を持つこと。
教科書やマスコミが教えてくれる日本の歴史が、いかに欺瞞と歪曲に満ちているかなんて、
今の時代、ちょっと調べればすぐにわかるものです。

それに、「死ねば仏」が日本の価値観。
死してなお、墓を掘り起こし唾棄するような考え方は、儒教的なものですね。
 
 
      以上がこの方の感想です。


思えば黒船襲来し開国、西洋文化に触れた我々の祖先は、このままではいけないと発起。強い国家を作ろうとしたのです。これは当然といえば当然のこと。
しかし(ここが大切)国力を強化する方法として、軍事力を強化、日清戦争、日露戦争と比較的局地的な戦争に勝利し、第一次世界大戦でも戦勝国のグループに入り負け知らず。結果領土を拡大し、欧米列強に近づいたことで、勘違いしてしまった。わが国は負けない強い国だと。近隣の国々とは違うと。

大陸に進出し(これは侵略ともいえる)さらに戦域を拡大。米英から『調子に乗ってるんじゃない』ワシントン条約でたしなめられても、軍拡主義に対する反省をせず。世界の一等国になるにはこれしかないと、大東亜共栄圏構想を一人よがりでぶち上げ、台湾、朝鮮、中国北部の満州国建国から大陸奥地を目差した。国際連盟の決議を無視、国際連盟を脱退。(どこかの国を見ているようだ。)16倍の工業生産力があるアメリカに喧嘩を売った。すべてアメリカから買っていて、貯めに貯めた石油はあるが、これでは足りないと南方諸国の石油、鉄資源などの確保(泥棒?)しようと、オランダが生き血を吸っていたインドネシア。フランスがひれ伏させていたベトナム、英国が支配し搾取していたシンガポールやビルマ。これらを泥棒から強奪するという手段で奪い取ろうとした。オランダ支配よりはよかったと歓迎されて地域もあるが。各地のアジア人を見下ろし、上から命じて支配しようとしたことは明白です。

無理に無理を重ねた戦争のつけは多くの兵士や国民の生命を失った。のみならず。アジアのほとんどすべての国の多くの人々の命も奪い、不幸のどん底に追いやった責任は当時の指導者が取らなければならないのは当然のことです。東条元首相、廣田元首相、東郷元外相ほか数人のA級戦犯がある意味では昭和天皇をかばいながら刑に服して死んでいったと考えられます。

昨今、小泉首相や安倍首相が行った行かないで論議になる靖国神社はこれらA級戦犯を奉っているわけです。日本では自らの罪を死をもって償った人に再び唾をかけたり、罵声を浴びせる文化はありません。スポーツでもその勝敗が決まって終了すれ、健闘した敗者にも暖かい拍手が送られるのですが、これらをまだ理解できない国民を抱える隣国に対し、彼らの心を踏みにじるように靖国を参拝するのではなく、我々日本人の文化や物の考え方を理解してもらってから参拝してもらいたいと思います。
北京オリンピックが行われますが、特に中国国民は国際的なマナーと相手にエールを送る精神を学んでほしいと思います。


日本には『あうん』の文化があります。言わなくても分かるだろう、伝わるだろう。
しかし、黙して語らないと外国人には伝わりません。日本人の価値観や考え方などを積極的に外国人に語り理解を求める必要があると思います。


60年以上前のことについて、今私たちが経験者からお聞きしないと、永久に聞けなくなります。既に文章や活字、写真のなっている、史実や戦争時の様子をお聞きしておかなければと思っています。
それらをもう一度検証しながら、さらに若い人たちに伝えていかないとなりません。
平和維持は対話です。

(2008年4月29日昭和の日更新のブログから)
昨年12月31日に父が亡くなりました。
その関係で戸籍など取り寄せているうち先祖や親類のことが気になりました。
曽祖父の名は市五郎。初めて知りました。なんか、「・・親分」みたい名前。
曾祖母は安政2年生まれ、黒船来航のころです。
祖父が48歳で亡くなったのは埼玉県川口市、何故??
偶然ですが、私と父が運転免許を取った自動車教習所のそばでした。ちょっとした因縁を感じました。
家は山梨県と東京文京区だったはず。川口市の出先で倒れてそのまま亡くなったようです。それが昭和16年11月、対米戦争開戦の1月前。
それから半年して父の長兄の伯父は海軍に志願したのです。満20歳くらいです。
そして
南洋のマーシャル群島で戦死したと聞いています。

歴史が好きな私は
実はその伯父について、マーシャル群島の何処でどの様に戦死したのか。どんな任務をしていたのか調べたくなり、1月下旬に厚生労働省の社会・援護局と言うところに問い合わせました。

すると
「貴方(私)と戦死なさった方の関係を証明する戸籍謄本と貴方の住民票、戦死した方のどんな情報を知りたいのかを書いた紙も同封して郵送してください。その際返信封筒などは要りません。(厚労省で用意)」とのとで、早速手続きをしました。

待つこと2ヶ月、今日来ました。
恐る恐る、緊張しながら開封しました。

厚生労働省からきたA4版封筒を緊張しながら開けました。

中の文書によれば、

第64警備隊としてマーシャル群島ウオッゼ島において勤務中のところ敵爆撃により昭和20年2月13日同島に於いて戦死されております。

とありました。

旧海軍の人事記録のカラーコピーも同封されていて、それによれば

伯父は昭和17年5月から1年ほど横須賀で訓練を受け、自動車運転講習員を命ぜられていました。

そして昭和18年5月乾祥丸に乗船してウオッゼ島に向かったようです。
そして戦死したのです。

キーワードを『第64警備隊』『ウオッゼ島』『乾祥丸』でネット検索するといろいろな事実がわかりました。

詳しくは書きませんが、大変に悲惨な戦場だったようです。
それでもマーシャル群島の他の島では全員玉砕している島がいくつももあるので、約3100名の隊員のうち生存者が1100名足らずながら、それだけあったことはまだいいほうだったのかも知れません。
また、疑えばきりがないのですが、戦死者の大半が餓死しているという記述もあり、特に昭和20年の2月は餓死した兵士が最も多かったことを考えると、その中の一人が伯父だった可能性はかなり高いように感じました。

『乾祥丸』と言う船は現在トラック島周辺にあって旧日本軍の沈没船としてダイビングスポットでもあるようです。

私が生まれる10年前に戦死した伯父には当然のことながら会ったこともありませんが、父の死をきっかけに伯父のことをより知るようになり、こうして伯父の冥福をいのる甥がいることを遠く南洋の島から伯父に感じて貰えたらと思いました。


参考 
土屋太郎氏著 篭城600日
  
海軍兵学校関係資料から吉見信一少将

昭和の日
今日は昭和の日、昭和天皇のお誕生日である。

今朝は家内と2人の娘(ワンコ)と三ッ池公園に行きました。


昭和天皇といえば戦争を抜きに語ることは出来ない。
あの昭和20年8月15日の玉音放送依頼、終生昭和天皇は戦争について語らなかった。それが象徴天皇がめざしたお姿なのだろうが、やはり真意を知りたいものである。私の伯父を含め何千万人以上の命を失わせしめたあの戦争についてきちんと語って欲しかった。

昭和天皇の死後15年以上たって、富田元宮内庁長官の手記が明るみに出て
その時の日経新聞よれば(引用)『 昭和天皇が1988年、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に強い不快感を示し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と、当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)に語っていたことが19日、日本経済新聞が入手した富田氏のメモで分かった。昭和天皇は1978年のA級戦犯合祀以降、参拝しなかったが、理由は明らかにしていなかった。昭和天皇の闘病生活などに関する記述もあり、史料としての歴史的価値も高い。 』

その記事を知った時私は信じられない思いで本当にがっかりしました。
この手記の記事だけを読むと、まるで戦争責任のほとんどはÅ級戦犯にあって、昭和天皇はそれを憎んでいたと解釈できます。だから靖国神社に参拝しないのだと。

そう解釈するとそれはあまりに悲しい。
戦争で亡くなった人たちのかなりの多くの人たちは『天皇陛下万歳!!』と叫んでいるのである。

敗戦後GHQも日本国民もその多くは昭和天皇を恨み、責任をとってもらうことより生まれ変わった象徴天皇と国民が力をあわせて国家を再建することを選んだはずです。そのお陰で今の繁栄があることは言うまでもありません。

国民の祝日『昭和の日』とした以上。
昭和天皇はあの戦争をどう考えておられたのか注目していきたいと思います。

歴史をうやむやにするのは日本人の悪い癖です。


未完

日本人が持ち続けてきた価値観ではありませんよ。